名君はエコロジスト
地方政治家が受け継ぐ、各行政マンたちの足跡

第弐回 津軽弘前蕃の防砂植林津軽信政の”国家百年の計”


Q「国家百年の計を打ち立てる者は誰か?」

A「政治家」

Q「政治家とは誰か?」

A「国会議員」

よって、「国家百年の計を打ち立てる者は、国会議員である」となる。はたして、これは正しいか?

行政学なる社会科学がある。公務員試験の試験科目に行政学があるので、公務員をめざす大学生だけが、関心を持っている。

行政学では、「議員には選挙がある。選挙に勝つには長期的公約よりも短期的公約のほうが圧倒的に有利である。したがって、議員とは目先のテーマを優先するものである」となっている。つまり、議員に「国家百年の計」を求めるのは不可能、と結論付けている。

しからば、「国家百年の計を打ち立てるのは誰か?」。行政学の解答は「役人は選挙がなく、身分が安定している。したがって、目先の利害にとらわれることなく長期的視野に立つことができる」となっている。

一般常識は、「議員は大所・高所に立って長期的判断をする。役人は目先の細々したことを適宜処理する」とされているが、行政学では「議員は目先のことを考え、役人は長期的な将来を考える」と、まるでアベコベ。「嘘だ!」「そんなバカな!」と思われるかもしれないが、どんな行政学の本でも、「いの一番」に、そのことが書かれてある。

一応、制度的には、議院内閣制度であるから、内閣は〔有力議員イコール大臣(役人)〕となっている。だから、矛盾を乗り越えることができるようになっている。しかし、現状は長期的課題も当面の課題も、後手と先送りばかりである。

だから、ついつい「国会議員でも高級官僚でも、どっちでもいい。誰でもいい。国家百年の計を見すえて、やってくれ!と叫んでしまう。たとえば、津軽弘前蕃の第四代藩主・津軽信政(一六四六〜一七一〇)である。

日本の美林「青森のヒバ」は、信政がうんだ

大雑把に言って、青森県の西半分が津軽蕃、東半分が南部蕃である。津軽藩の藩祖は津軽為信(一五五〇〜一六〇七)で、南部氏の家臣であったが、独立して津軽を平定した。そのため、南部と津軽は犬猿の仲となり、今でも仲が悪いらしい。なんにしても、藩祖の為信は相当の器量才腕の英雄で、太閤から津軽四万五〇〇〇石を安堵された。

二代信牧、三代信義と藩祖の志をよく受け継ぎ、そして明暦二年(一六五六)、十一歳の信政が四代藩主となる。

津軽信政は、元禄年間(一六八八〜一七〇四)の七人傑の一人(「近世人鏡録)」に教えられている名君で、「津軽藩中興の英主」「哲人政治家」と賞賛され、高照神社の祭神にまでなっている。

津軽の地は基本的に最果の地、風雪の地、不毛の荒地、流刑の地(多くのキリシタンが流された)であった。しかし、津軽氏四代にわたって新田開発が急ピッチに進み、四万五〇〇〇石が、

正保二年(一六四五)には約一〇万石

寛文四年(一六六四)には約一五万石

貞享四年(一六八七)には約二六万石

元禄七年(一六九四)には約三〇万石

と驚異的な大躍進をとげた。むろん新田開発に際して、数々の便宜・保護が採用された。たとえば、少禄の藩土が開田すると、その半分が禄高として与えられたため、競って開田した。しかし、大地は有限であり、元禄時代には、開発可能な適地がなくなり新田開発時代は終了する。ちなみに、明治六年(一八七三)の地租改正では三四万石とされている。

さて、「国家百年の計」のことであるが、戦国時代末、日本中はハゲ山だらけであった。明日をも知れぬ戦乱の世に、誰も百年先のことを考えて植林などするわけがない。平和な江戸時代となって、日本列島は大植林時代をむかえたのである。津軽の地でも同様である。

信政は、寛文七年(一六六七)に五大林区を設定して治山行政を確立した。現在、日本の三大美林とは、秋田の杉、木曾の檜、そして青森のヒバは津軽信政の治政は今も生きているのである。

それにも増して、感動を覚えるのが、日本海の海岸部一帯、すなわち十三湊からから鰺ヶ沢に至る約四〇キロメートルに、飛砂防止の植林事業を行ったことである。いつの頃からか、「屏風山植林」と言われるようになったが、これは植林帯が屏風のように強風と飛砂を防ぐようになったからで、当時は砂地と湿地が延々とつづく完璧な不毛地帯であった。

津軽の日本海側の冬期は激烈である。シベリアからの北西の季節風はすさまじく、海岸の砂は幾万幾億の「砂つぶて」と化し、田畑、人家を強襲するのであった。積もった雪などは、一度、この強烈な強風が到来するや、ことごとく吹き飛ばされてしまう。よって、この地の雪は「天から降るのではなく、横に降る」のである。

歌謡曲の歌詞に「津軽には七つの雪が降る」とか「こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪、春待つ氷雪」というのがあるが、この歌詞はたぶん津軽でも内陸の山間部のことであろう。なぜなら、「横雪」がないからである。

盗伐者は斬首し、樹木の肥料に用ゆ

津軽信政は城内に閉じこもっている殿様ではなく、現場を第一とする人物であった。遠からず新田開発も限界に達する。新田の生産性向上には潮風や飛砂を食い止めねばならない。長大なる防砂林地帯が成功すれば、新田の生産性向上だけでなく、広大な海岸地帯の砂浜を畑地に開墾できるかも・・・・・・。しかし、砂地への植林は難しい、と聞く。砂地への植林は、はたして可能か。

この時、信政の耳に、野呂理左衛門(?〜一七一九)のうわさが届いた。野呂理左衛門は、知行五〇石、広須新田などの御普請奉行や御立山諸材木取り扱いを命じられていた。仕事振りは、自らクワを持ち率先実行するタイプである。それよりも、信政には次のうわさが気になった。

「野呂理左衛門どのは、苗木を植える際、妙なことをなさる。ふつう、草を刈り取ってから、苗木を植えるもんじゃろ。ところが、苗木を植える前に、ハマムギやススキの草を播くのじゃ。なんかのお呪いじゃろうか」

信政はすぐさま理由を尋ねさせた。

「砂地に木の苗を植えても上手にいかない。しかし、ハマムギやススキの草を播いてから苗を植えると、それが足がかりになって風砂除けをつくり、上手にいく」

信政は、この話を聞くや、生態学の一端を悟ったのだと思う。天和二年(一六八二)、津軽信政は野呂理左衛門に対して、日本海の長大な砂浜海岸へ大々的な植林を命じた。

長さ四〇キロメートル、幅二キロメートルの植林事業が開始された。むろん野呂一人が実行したわけではないが、せいぜい十人である。記録を読むと、まさに東奔西走で、ひたすら植えて、植えて、植えまくっている。

しかし、難問が発生した。

この地は砂地・湿地帯で樹木はゼロ。であるから、村人は薪を入手するため、遠方へ行かねばならなかった。植栽が生長してくると、こっそり盗伐する者が続出したのである。藩はいろいろと監視体制をとったが、盗伐は解消されない。そこで津軽信政のびっくり仰天のお触れが登場する。

「一人の悪行普く庶人に来し宥怒すべからず。若し盗伐者の悪行をなす者あらば、是を処するに斬罪を以てし、而して該首を樹木養成の肥料に用ゆべし」

何事においてもトップの断固たる決意は、なによりも大切だ。この厳命によってピタリと盗伐がなくなった(実際に斬首された者はゼロ)。かくして、元禄十六年(一七〇三)までに、約六九万本の松、杉、雑木が植え付けられたのである。

封建時代の家制度の便利な点は、信政と理左衛門が亡くなっても、信政の野呂家への命令は生き続ける。理左衛門の子、孫も、屏風山植林の完成のため、黙々と木を植え続け、宝暦年間(一七五一〜六四)になると、ようやく防砂林としての機能を果たすようになった。約一〇〇年間にわたる植林の努力によって、生産力は二倍になったと推計されている。まさに百年の計は成就したのである。

めでたし、めでたし、と終わればよいのだが・・・・・・。

ここに天明の大飢饉(一七八二〜八七)が発生。生きるためには木の皮、草の根まで食料とし、そのため一〇〇年の努力は無となる。しかし、野呂家の植林は再開され、幕末・維新も関係なく、営々と継続された。

いつの頃からか、それは藩主の御命令ではなく、村人全員が心から「屏風山植林こそが村の生命線」と認知するようになっていたのだ。国家百年の計の成功・不成功は、時間的ズレはあろうとも、トップと国民の完全合意が決め手である。