悲劇の英雄(2)

西郷 隆盛

平成20年6月2日、太田哲二


上野の西郷像は自由の象徴

西郷隆盛の銅像は、東京上野公園と郷里鹿児島市にある。

上野公園の銅像は犬をつれた弊衣姿で庶民的だ。この銅像の由来は、まず明治16年、福沢諭吉が発起人総代として建設を企画した。しかし、西南戦争(明治10年)で国賊となった西郷の銅像建設を快く思わない政府の圧力のため実現しなかった。しかし、全国に賛同者が存在することが確認され、憲法発布(明治22年)を契機に、西郷の竹馬の友である吉井友美らが世話人となって実現した。当代随一の彫刻家・高村光雲の作である。

鹿児島市の銅像は直立軍服姿である。日華事変の最中、つまり陸軍絶対の時代に作られた。制作者は東京渋谷駅の忠犬ハチ公をつくった安藤照である。なお、このハチ公像は、大戦中に金属資源不足のため供出された。今の忠犬ハチ公像は、戦後、再建されたもの。

いずれの銅像が、西郷隆盛の実像に近いのか?

一方は、庶民派、自由と無欲……。

他方は、陸軍大将第1号、好戦主義、軍国主義……。

普通の西郷に関する知識は、次のようなものであろう。

――倒幕・維新の第一功労者で、そこまでの西郷は偉人であり善。しかし、その後は、よろしくない。侵略主義そのものの征韓論を主張し実行しようとした。その心は、好戦主義、武断主義、軍国主義。征韓論は、海外情勢に明るい大久保利通との政争の結果、敗退。下野して鹿児島に帰ったが、不平士族にかつがれて西南戦争へ。その心は、士族主義、薩摩主義、反動主義。最期は、賊軍の大将として城山にて自決。要するに、討幕までは英雄・偉人であるが、それ以後は、時代の変化についていけない古い徳の武人。

だが、違うのです。

そう思われているからこそ、西郷隆盛は最大悲劇の英雄なのです。そう思われている方がいる限り、西郷の悲劇は終焉していないのです。

なぜかと言うと、そうした認識こそは、西郷が命をかけて闘った専制抑圧政府が、でっちあげた西郷イメージだからです。

西郷らは、幕府という専制抑圧政府を打倒した。維新政府の方向性は、二つに分かれた。

一つは、四民平等、自由と民主主義、汚職・金権の追放。つまり、維新の徹底である。西郷が、その中心にいた。

もう一つは、四民平等を装いながら維新功労者を新たな特権階級にする。天皇と官僚を著結させて、政府批判は天皇批判とみなし言論統制。政府高官の汚職・金権体質を容認する。つまりは、天皇制官僚による新たなる専制抑圧政府である。大久保利通が中心人物である。

大久保の専制抑圧政府は、西郷精神を永遠に封印するため、西郷に、「征韓論者、好戦主義者、武断主義、薩摩主義、不平武士の大将、古いタイプのお人よし」のレッテルを貼り付けた。これは、みごとに成功し、たとえば、西郷は「征韓論」など主張しなかったのに、国民の99%は、西郷を征韓論者・好戦主義者と信じてしまっている。

だが、西郷と同時代を生きた福沢諭吉らは、西郷が「平和主義、四民平等、自由、汚職追放」に命がけで闘ったことを熟知していた。だから、西郷精神の復活を熱望して西郷の銅像を建設しようとしたのである。

上野の銅像の除幕式の時、未亡人が「顔が似ていない」とつぶやいたが、そのことはともかくとして、あの銅像からは、「地位、財産、勲章にとらわれない」、「反専制抑圧政治」、「反汚職金権」などが、間違いなくイメージされる。制作者・高村光雲もまた、そうした西郷精神が銅像から放射することを念じて作ったのではなかろうか。

唐突かも知れないが、あえて言う。

アメリカの自由を「自由の女神」が象徴しているように、上野の西郷隆盛の銅像こそは、日本の「自由」を象徴している。


島津斉彬の御庭方として国事に奔走

西郷の生涯を語るとなると、幕末・維新のすべてを述べなくてはならない。少々長くなりますが、一応、その概略に従って……。

  1. 下級武士の家に誕生
    文政10年(1827年)、薩摩藩の城下町・鹿児島の加治屋町の貧乏な下級武士の家に誕生。20歳頃、郡方書役(こおりかたかきやく)という地方役人となる。百姓の貧困にいたく同情する愛民愛農の青年だったらしい。
  2. お由羅騒動
    藩主・島津斉興(なりおき)の後継者は、正室の長子・斉彬(なりあきら)が常識である。ところが、斉興は、愛妾お由羅を溺愛し、お由羅の子の久光に継がせたい。
    斉彬派と久光派の間に陰湿な派閥抗争が展開された。特に、「高崎崩れ」(嘉永朋党事件)では、斉彬派は切腹13名を含む約50名が処罰された。西郷の幼馴染である大久保利通の父も遠島であり、利通自身も役職剥奪。切腹組の赤山は、切腹に際して西郷に血染めの肌着を贈った。しかし、結局は老中・阿部正弘の働きにより、嘉永4年(1851年)に斉彬が藩主に就任。
    なお、斉彬派と久光派の暗闘は、明治になっても続く。これは、西郷理解のベースである。
  3. 開明藩主・島津斉彬
    後年、勝海舟が斉彬を「幕末第1等の英王」と誉めたように、斉彬はずばぬけた人物であった。たとえば、鹿児島に、集成館と称する日本初のコンビナートを建設した。反射炉、ガラス工場、造船所、水力発電所……、1日に1,200人が働いた。オランダ人技術者ですら驚嘆するレベルであった。
    斉彬は薩摩をマンチェスターのような工業都市にし、日本を英国のような工業国家、大海軍国家にしようと構想していた。当然、開国主義であるが、幕府の「やむなし開国」とは異なり、日本の富国強兵と一体化していた。そのためには、天皇を中心に幕府諸大名は「一体一致」の体制、すなわち、藩を超えた統一国家でのぞむ、というものであった。彼は、世界史の中で、日本を的確に認識していた。
  4. 斉彬、西郷を抜擢登用する
    安政元年(1854年)、西郷は斉彬から抜擢され、江戸において斉彬の「御庭方」となる。
    この年に、日米和親条約が結ばれた。開国論と攘夷論が沸騰していた。
    さらに、13代将軍家定(将軍在位1853〜58)は病弱で嫡子誕生は絶望的。そのため、跡継問題が焦点とまっていた。血統重視派は幼少の紀州家・徳川家茂(いえしげ)を推した。国難に対処するには賢明な人物をと考える派は、一橋家の徳川慶喜(水戸藩主・徳川斉昭の子)を推した。
    島津斉彬は一橋派であり、水戸藩との連携を深めた。御三家の一つである水戸藩は、三百諸大名で唯一将軍家の御政道を批判することが許されていた。しかも、次期将軍候補をかかえている。だから、水戸藩邸を中心に「天下の情勢」が語られ、全国の憂国の士が参集して議論していた。西郷の主な役目は、水戸藩邸へ出入りし、水戸藩邸の世論を斉彬に伝えることにあった。
  5. 斉彬の突然死
    尊王と佐幕、開国と攘夷、天下は二つの座標軸で沸騰していた。江戸の政治状況は、次第に将軍後継問題に収斂され、「水戸、一橋、外様雄藩(代表格が薩摩)」と「紀州、大奥、譜代大藩(代表格が井伊直弼)」という対立構造になった。「尊王主義を基調に幕府改革」と「家康以来の幕府の権威復活」の闘いでもある。
    西郷は斉彬の手足として東奔西走する。藤田東湖、橋本左内ら、当時の最高級人物との親交も深めた。
    そんな中、安政5年(1858年)、井伊直弼が大老として登場。一気に、日米通商条約調印、将軍跡継を家茂に決定。そして、反対派、すなわち、一橋派および尊王攘夷派への「安政の大獄」となる。御三家ですら隠居謹慎であるから、草莽の志士など逮捕・死罪は当たり前。まさに、専制抑圧政府の大弾圧である。
    薩摩にいた斉彬は、この上は、朝廷の権威をもって幕府を改革する以外に道はなし、そのため、「朝廷守護」(斉彬は孝明天皇より勅諚を得ていた)の名のもと、兵を率いて上洛する決意を固めた。しかし、安政5年7月、斉彬は突然に逝去。

    京都にいた西郷は、井伊の専制打倒のため一刻も早い斉彬の「出兵上洛」を熱望していたが、届いた知らせは、斉彬の死。呆然の西郷は「殉死」を決心する。

入水自殺と5年間の流罪

  1. 入水自殺と奄美大島の西郷
    しかし、斉彬の志を実現することが天命と決意し、井伊打倒に奔走するが、安政の大獄で同志が続々と逮捕されて実現不可能。京都で西郷とともに奔走していた僧・月照にも逮捕の手がのび、薩摩へかくまおうとした。
    その薩摩も保守化していた。斉彬の後継藩主は、久光の実子・忠義であり、藩の実権は久光に。すなわち、久光派の台頭である。思想なき部下は、トップが変わればコロリと変わる。薩摩藩重臣は月照をかくまうどころか、切り捨ての結論を出した。西郷は月照と二人で入水自殺。月照は死んだが、天は西郷を蘇生させた。
    そして、安政6年(1859年)1月、西郷は奄美大島へ流された。流人の身、いかんともしがたく、のんびり暮し。妻も娶り、子も儲けた。島民は、西郷が「蝦夷人さばきより、はなはだしい」と嘆いたように、藩のドル箱である黒砂糖生産のため奴隷状態。流人ながら、島民のため、あれこれ骨を折ったようだ。
  2. 大久保と久光の妥協――斉彬派の分裂
    久光は大久保利通らの斉彬派を「誠忠」の士とおだて、「時節到来の際には斉彬の御深意を貫き」と約束する。これを契機に、斉彬派は大久保らの妥協派と激派に分裂していく。
    万延元年(1860年)、桜田門外で井伊が暗殺され、幕府の方針は井伊の「幕府の権威回復」から「公武合体」へ移った。
    各地の激派は、未だ明確な倒幕意志を持っていないが、「幕府中心ではなく朝廷中心に大改革」、すなわち、「公武合体反対」の心情である。
    久光は大久保との約束どおり斉彬の意志を継ぐべく「出兵東上」を決定した。しかし、斉彬の志とは異なり、久光の真意は公武合体による幕藩体制強化である。要は、幕府を雄藩が補強、久光は幕府政府の実力大臣になりたいだけ。だから、「激派」と「久光の真意」は敵対関係にあるのだが、「久光の真意」を知らない激派は、久光上洛と同時に決起すべく血を熱くしていた。
  3. 西郷、今度は、徳之島・沖永良部島へ流される
    おそらく激派をなだめるために、西郷を復帰させたのであろう。奄美大島から呼び戻された西郷は、「出兵東上の中止、江戸へどうしても行きたいのなら船で……」と進言した。しかし、拒否された。それどころか、「激派と暴発を企てた」として久光の激怒をかい、今度は徳之島へ流される。自由の身はわずか3か月で終わった。
    護送の途中、寺田屋事件を知る。上洛した久光は、激派を寺田屋で惨殺したのだ。西郷は久光を「勤皇芝居」と悲憤した。
    西郷は、徳之島から、さらに沖永良部島へ流される。この島は死罪に次ぐ重罪人を流すところである。久光は西郷を獄中死させたかったが、西郷の人格に感動した島役人の好意で生き延びる。
    さて、久光は京都の激派を一掃した後、江戸に下り、久光構想の幕政改革を実現した。帰路、久光一行の前をイギリス人が横切り、これを殺傷するという生麦事件を起こす。そして、京都へ着くと、びっくり。一掃したはずの激派が京の政界をリードしている。尊王攘夷の長州藩が京の主導権を握っているのだ。しかも、寺田屋事件で志士多数を惨殺した久光と薩摩の人気は最低になっている。久光はガックリして薩摩へ帰る。さらに、生麦事件の報復のため、文久3年(1863年)7月、薩英戦争で鹿児島は火の海となる。
    久光の出兵東上は、ろくな結果を生まなかったのである。

倒幕

  1. 西郷の復帰
    京では長州尊攘派が支配的であったが、文久3年(1863年)8月18日、薩摩・会津は公武合体派の公家と連携して、長州勢力と急進派公家7人を京から追放(8月18日の政変)。一応、公武合体派は勝利した。しかし、久光と薩摩は「薩賊」と評され、さらに、薩摩の密貿易の噂も流布して、評判はどん底。
    そんな情勢の元治元年(1864年)2月、西郷は赦免されて、京で久光から軍賦役を仰せつかり、実権をまかせられる。久光も大久保も途方に暮れていたのだろう。
  2. 禁門の変(=蛤御門の変)
    西郷は薩摩の信頼回復のため、会津と距離をおき、長州と連携を探った。西郷は会津藩と新撰組が長州の尊攘派を襲った池田屋事件(元治元年6月)にも批判的であったし、長州が兵を京周辺に展開しても、中立を維持していた。
    しかし、元治元年(1864年)7月、ついに長州が兵を京に押し寄せた時、西郷は「朝廷守護」のため長州軍を打ち破る。薩摩の強兵と西郷の名は一躍有名となる。
  3. 第1次長州征伐
    禁門の変の翌日、幕府は長州征伐を命ずる。この時、西郷と勝海舟は初めて会った。
    「今は国内で争うべきではない。幕府はもはや再建できない。雄藩が連合して幕府第1主義者を倒し、国内統一を」
    西郷は勝の言葉に感動した。それは、斉彬の考えとほぼ一致していた。西郷自身も、薩・長の接近を図っていたから、西郷の腹は倒幕に固まった。
    一戦も交えず講和をなす……そのため征伐軍総参謀たる西郷は、敵の本拠地へ単身乗り込み、講和条件をつめた。西郷の真骨頂である。そして、西郷はあいまいな講和を長州に了解させて、それで、長州征伐は終了したとみなし、強引に征伐軍を解散させた。
  4. 新政府樹立
    その後は、一気に進行する。
    幕府は長州再征を決定。西郷と木戸孝允の間で薩長連合成立。長州再征で幕軍敗退。慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還、討幕の密勅。同年12月9日、王政復古の大号令、つまり新政府樹立。その夜の小御所会議で徳川慶喜の厳罰決定。これらの進行過程の要所要所で、大久保の謀略、西郷の胆力が発揮された。
  5. 戊辰戦争
    明治元年(1868年)1月、新政府に反発した旧幕府側は京都に反撃したが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、慶喜は江戸へ逃れる。
    2月。有栖川宮親王を東征大総督に任じ、薩摩の西郷と長州の林玖十郎の2人が参謀となる。そして、3月、江戸の薩摩屋敷で、西郷と勝海舟、両雄の会見にて、江戸城無血開城が決定。
    ここで、西郷の戦争観を一言。
    基本的に合戦を好まない。しかし、敵を降伏させるためには武力で脅す必要があると認識している。好戦主義を裏付ける文献も多いが、それらは、「武力で脅して合戦なしで勝つ」ことに他ならない。そして、敵が屈伏すれば、私心なく誠意で対応する。第1次長州征伐でも、江戸城開城でも、東北戦争の庄内藩処分でも、実に平和的で寛大である。
    さて、彰義隊が上野に陣を置いた時、官軍の参謀本部には平和主義者は西郷一人だけ、他は合戦大好き幹部ばかり。西郷は最後まで、山岡鉄舟に彰義隊降服を説得させた。上野に西郷像が建ったのも、そんな因縁かも……。
    上野戦争の指揮は、長州の天才戦術家・大村益次郎がとった。彼と比較して、西郷を軍事的無能者とみなす見解もあるが、そもそも嫌戦主義者の西郷が戦術に長けているわけがない。

維新の実を実現した西郷政府

  1. 薩摩の西郷
    戊辰戦争が終わると、西郷は薩摩へ帰った。薩摩で藩政改革をしなければならなかった。一時帰国した大久保は「島津家の家政」と「藩の政事」とを完全分離した。これは、後日の廃藩置県の準備段階である。つまり、分離されていれば、「藩の政事」をスンナリと維新政府に直結させやすい。大久保は、他の藩改革を西郷に任せ、東京へ。
    西郷は薩摩で、門閥打破、士族内部の階級・所得の平均化を実行した。上級武士の所得を削減して、それを下級武士の所得増加と兵制改革に振り向けた。
    この藩改革だけを抽出して、「薩摩だけのことを考える薩摩主義」、「下級武士だけに心をくだく士族主義(百姓のための改革がない)」、「武力を強化して戦争準備」と批判する者がいる。確かに、封建レベルの改革である。しかし、これは次の廃藩置県の市民革命的改革の準備段階にすぎない。来るべき廃藩置県の大改革を平和裏に遂行するには、薩摩(西郷)の兵力が絶対的に必要と信じていた。
    なお、この時期に、薩摩だけで突出した大改革(市民革命的改革)を強行したならば、久光派との薩摩内戦になったことであろう。
  2. 官位を辞退
    明治2年(1869年)6月、新政府は戊辰戦争の恩賞を発表した。西郷本人は辞退、同時に久光父子にも辞退を勧める。他藩は、薩摩が天下を狙っていると疑心暗鬼。土佐の板垣は、薩・長の内戦が必至と考え、「四国連合」を結成したくらいだ。薩摩が私心なき態度を示さなければ、天下取りの内戦になってしまう。西郷の説得に、久光父子はしぶしぶ恩賞を返上した。
    その直後に、版籍奉還が実施されて、藩主島津忠義は藩知事になったが、知事の家禄は十分の一に減額。久光の西郷・大久保への怒りは爆発寸前。西郷という重石が薩摩にいればこそ、久光はおとなしくしているが、西郷が上京すれば、いつ爆発するか分らない。
  3. 西郷、東京へ
    版籍奉還がなされても、藩主が知事になっただけで実質的変化はなし。また、新政府の汚職腐敗は幕府以上に蔓延した。大隈重信も女官にワイロを贈る有様だ。汚職腐敗に抗議の切腹をする者も出た。無力・退廃の新政府である。
    西郷としても大改革のため上京したいが、久光の動向が心配で薩摩を離れられない。
    一方、新政府の一部(岩倉ら)には、「西郷―久光」反逆の妄想があり、なんとしても、西郷と久光を上京させたかった。また、大久保も大改革のため、西郷の上京を望んでいた。
    そんなことで、岩倉と大久保は薩摩に下り、勅命をもって西郷と久光の上京をうながした。西郷は承諾したが、久光は病気理由に無期延期とした。その際、久光は、西郷と大久保に、廃藩置県絶対反対を力説した。
  4. 2年2か月の西郷政府
    大改革はバックに強力な兵力が控えていないとスムーズにできない。だが、徴兵制の近代兵制は間に合わない。それゆえ、薩・長・土の藩兵を天皇の「御親兵」にした。薩摩がその7割をしめた。山県有朋は西郷に「薩摩の兵は一朝事ある日、薩摩藩主に弓がひけるか?」と尋ねた。西郷は「もちろん」と答えた。久光謀反は想定されていたが、すでに下級武士の心は、お殿様ではなく西郷のものになっていた。
    かくして、明治4年6月、西郷と木戸が参議に就任。事実上の「西郷政府」の誕生である。
    西郷政府は、大改革に突入した。
    明治4年7月、廃藩置県の断行。本当の維新が開始されたのだ。鹿児島の久光は、激怒のあまり邸内で花火を打ち上げさせた。
    これ以後、大改革が怒涛の如く続く。
    8月だけでも、全国の城・兵器を政府が管理、旧藩の藩兵の解散、廃刀の許可、穢多非人の廃止、華族士族と平民の結婚許可……
    その後も、寺社の女人禁制を解除、学制の発布、人身売買禁止令、徴兵令、キリシタン解除、平民の名字許可、裁判所設置、妻からの離婚訴訟許可、地租改正……
    西郷は綱紀粛正も着手した。俗吏は「ぬれネズミの如く成り申し候」となった。宮中の粛清すら実行し、強欲な女官を追放した。大物の井上馨、山城屋和助、山県有朋の大汚職もあばかれた。
    西郷政府は廃藩置県に始まって、一挙に封建制を一掃し、自由、平等、汚職追放に邁進した。新聞、雑誌が続々と発刊され、自由と民主主義の啓蒙書が続々と出版された。四民平等、文明開化の新時代が到来した。

西郷は「征韓論」者ではない

  1. 自由の守護神
    これらの改革の発案者・実行者は別にいるが、バックにドンと西郷がいたからこそ、封建制打破、汚職金権追放、四民平等、自由と民主主義にむかって進行できたのである。それが、どうして、不平士族の代表、薩摩主義、封建制の遺物なのか……。
    不平士族の代表とは島津久光である。久光は大小刀を腰に下げた250人の猛者を引連れて朝廷を脅かす有様だ。そこで、朝廷は久光ら反動連中に対抗するため、西郷を「陸軍大将」に任じてバックアップした。西郷の「陸軍大将」とは、自由の守護神なのだ。
  2. 西郷は「遣韓論」である
    明治6年、征韓論が初めて閣議にのぼった。朝鮮が日本人排斥を決定したとの報告があったからだ。
    板垣が「日本人保護は政府の義務、速やかに兵を釜山に送り、その後、修好条約の談判を」と『征韓論』を主張した。
    西郷は「日本は責任ある政府高官を使節に派遣もしていない。まず、全権大使を派遣すべきだ」「全権大使が殺害されたなら、兵を送る。自分が全権大使に」と述べた。
    西郷としては、(他の連中は戦争大好き人間ばかりで、そいつらが行けば、それこそ交渉決裂で戦争になってしまう)と思ったから、平和主義者たる「自分が全権大使になる」と意思表示したのだ。西郷は『征韓論』ではなく、『遣韓論』を述べたにすぎない。ただし、西郷の周囲には征韓論者が大勢いたことは事実だ。
    大久保は権力奪取のチャンス到来とみた。大久保は、「西郷の『遣韓論』は実は『征韓論』だ」という奇妙な理屈と大久保得意の謀略で、西郷の『遣韓論』をつぶした。西郷は辞表を提出。板垣、江藤、副島も下野する。西郷を慕う近衛兵(御親兵が発展)約600人も東京を去った。
  3. 大久保専制抑圧政府
    人気抜群の「西郷政府」の後、大久保が権力を握る。専制抑圧政府となった。農民一揆が続発し、武力弾圧。士族の乱にも武力弾圧の皆殺し。汚職腐敗が蔓延したが、これは容認。言論の大弾圧。大久保政府の支持率は0%。政府打倒の声は全国に満ち溢れた。
    大久保は恐れた。万一、西郷と久光が手を握ったら……。そこで、大久保は久光と妥協して、久光を左大臣にした。ただ、久光はアホなクーデター騒ぎを起こし、鹿児島へ戻る。
    さらに、大久保が恐れた悪夢がある。もし、天皇が西郷復帰を命じたら……。
    西郷の私学塾は「自由と民主主義」を学ぶ青年で活況を呈していた。大久保は、西郷と私学青年の皆殺しを決断した。大久保専制抑圧政府のスパイ挑発謀略活動が展開される。西郷は、ひょっとすると、斉彬の「出兵上洛」を思い出したのかもしれない。いずれにしても、西南戦争で、西郷と西郷精神は抹殺された。