名君はエコロジスト
地方政治家が受け継ぐ、各行政マンたちの足跡

第壱回 岡山備前藩の環境行政 池田光政の”川除の法”


平成九年(一九九七)四月、長崎県諫早湾で重さ三トンの鋼板二九三枚が海中に落とされた。鉄板の潮受堤防によって湾奥部が遮断され、諫早湾千潟の死刑が執行された。人々は、その光景を「海のギロチン」と呼んだ。

諫早湾千拓は何を目的にしているのか、さっぱり分からない。最初の構想は、農地造成であった。しかし、米過剰により中止。次に水道水確保を目的として復活した。しかし、地元漁民の反対で中止。そして、昭和五十八年(一九八三)、今度は防災を目的として計画され、ついに着工された。

ところが、この防災目的はまったくのデタラメ。死者数百人を出した諫早大水害(昭和三十二年)を念頭に置いているらしいが、あの水害は河川の上流・中流地域に降った集中豪雨が原因。河口の千拓の有無なんか無関係、と素人でも分かる。

高潮対策という理由もあるが、かつてあの地域は高潮被害などない。それでも高潮対策をしたければ海岸の護岸堤防を強化すれば事足りる。あるいは海岸地域の農地の排水対策という説明もある。これなど排水ポンプを数台設置すれば簡単に解決してしまう。

結局のところ、「不景気だから大規模公共事業」なのだろう。景気対策の公共事業も、それはそれで理解できるが環境破壊までして埋めて、また掘ってまた埋めて……だって立派な公共事業だ。「環境破壊のための公共事業」よりは「公共事業のための公共事業」のほうが、環境破壊がないだけベターだ。むろん「価値ある公共事業」など、いくらでも考案できるから、脳味噌が膠着している証拠だ。

大規模開発は「慎重の上にも慎重に」という単純な論理が通らない今の日本、ああ情けなし今の日本……。

昔は名君と言われるお殿様がいた。たとえば、備前岡山の池田光政(一六〇九〜八二)である。池田光政も児島湾千拓を実行したが、もし光政があの世から出てきたら、諫早湾の関係者は切腹間違いなし。

池田光政は、水戸の徳川光圀、会津の保科正之、加賀の前田利常と並び称される徳川初期の名君である。光政は約五〇年にわたって備前は治めた。主な治績をまとめると…・…、

  1. 学問の普及。藩校、一二三ヵ所の手習所(統合して閑谷学校)の設立。
  2. 数々の愛民政策。
  3. 迷信がはびこる寺・祈?所の淘汰。
  4. 「備前風」と称されるほどの質素倹約。

池田光政の「仁政」は、ともすると光政が登用した儒家熊沢蕃山の功績のように受け取られがちである。だが、光政のような頭脳明晰かつ几帳面な人物が治政を他人任せで「よきにはからえ」をするわけがない。蕃山の登用期間は一二年間だけで、あくまでも名君光政のお手伝いにすぎない。

なぜ光政は「仁政」を貫徹できたのか。普通は儒教や熊沢蕃山に理由を求める。しかし、「仁」の素たる「やさしい心」は、どこから来たのか。

そもそも先祖代々美濃国の小豪族であった池田氏は、清和源氏の源 頼光を遠祖とするが、実質的には「楠胤伝説」である。某女が南軍の将・楠木正行(楠木正成の長男)に嫁いだが、正行は戦死。某女は正行の子胤を宿して池田氏の当主と再婚。子胤は無事誕生し池田氏を継承する。この伝説の真偽は不明だが、江戸時代においては真実とされていたし、光政も誇りに思っていた。つまり、池田氏の実質的先祖は子胤を持ち帰った某女なのだ。先祖のことを思えば、必然的に女性特有の「やさしい心」が育まれる。

また、池田氏を巨大大名に発展させた祖父池田輝政の妻の影響もある。正室は金糸で長男利隆(光政の父)を生んだが、徳川との政略結婚のため、涙の離縁劇。後妻に入ったのが家康の次女富子で、忠継・忠雄を生む。そのため、池田一族は金糸系と富子系の対立が発生し、輝政の逝去直後、お家騒動「毒饅頭事件」となる。この事件はさておき、光政の心情は「かわいそうな祖母金糸」であり、つまりは「やさしい心」が育成される。

また、さらに、光政の妻勝子。彼女は戦後最後のヒロイン千姫(天樹院)の娘である。千姫は、なんたって「男漁りのご乱行伝説」が発生するくらいの美女。その千姫はわが娘夫婦を支援するため一肌も二肌も脱ぐ。なんにしても、勝子を思い、そして千姫おかあさまを思う時、やっぱり「やさしい心」に・・・・・・。

「仁政」の「仁」とは、現代の「愛」とほぼ同じであるが、「他人にやさしい心」「真心」と言った響きである。いかに儒学を勉強しても、そうした心がなければ、「頭デッカチのお殿さま」に終わる。光政が正真正銘の「仁政」をなしえたのは、周辺の女性から、そうした心を育んだからであろう。むろん、儒学を勉強して、「己を修めて人を治める」を根本とする「仁政」に磨きがかかったことは確かである。

さて、承応三年(一六五四)備前全土は大洪水で壊滅的な打撃を被った。岡山はその名のとおりハゲ岡・ハゲ山が多い。「治水は治山にあり」のエコロジー思想は、畜山ならずとも常識。岡山では杉や檜は育ちにくいから、せっせと松の植林をしていたが、間に合わなかった。

大洪水の後には大飢饉が発生する。そこで光政は徹底的な愛民救済を取る。城内の米・銀を国中に分配。それでも不足なので借金した。「ぜいたくのための借金は恥だが、こうした際の借金は少しも苦でない」と言って天樹院(千姫)を介して将軍から四万両を借りて分配した。しかも、農民に「かたじけがらせること」を厳禁したのである。災害は君主の不徳、自分の責任と考えているからである。光政の愛民政策は家臣をして「百姓ばかりを大切にし、侍のことを考えてくださらぬ」と不満の声が洩れるほどであった。

神戸大震災の貧困なる救授対策と比べ、まったく感心してしまう。

緊急対策の後、当然に抜本的対策が検討された。熊沢蕃山が岡山城下を流れる旭川の改造を企画した。企画名を「川除の法」という。

明治以前の治水原則は、「いかに上手に氾濫させるか」である。単純に言えば、人家も農地もない荒地・沼地に氾濫させれば被害はゼロ。そうした適地がなければ、人口密度の低い地帯へ氾濫させる。さらに同じ洪水でも激流ではなくヒタヒタヒタと穏やかな氾濫にさせれば、なお被害額は少なくなる。

だから、「越流堤」といって堤防の特定部分を低くして計画的に氾濫させる。そして、越流堤から氾濫した激流の水勢を減少させる。

ところが、この「川除の法」と新田開発がからみあってしまった。

「農地が少ないため半奴隷的な小農民が大勢いる。彼らに農地を与えれば自立した本物の百姓になる。そのため新田が必要だ。旭川の越流堤を越えた悪水は放水地帯を通って児島湾に流れる。児島湾の海面は遠浅の干潟であるから新田開発が可能。したがって、治水工事と新田開発を一体的に実施を」

当時は全国的に新田開発ブームが到来していた。ところが、熊沢蕃山は反対した。

「瀬戸内海地方は元来、雨が少ない。下流に既存の田が水不足を起こして荒廃する。そうならば、なんのための新田か。新田よりも古田を守るべきだ」

また、次のような意見もあったに違いない。

「越流堤を造ると特定地域だけが水害にあう。その他の百姓は悲惨になる」

現代ならば、さしずめ環境アセスメントの議論である。あいまいな開発、納得できない開発は、当然、保留または中止すべきである。やみくもに実行するだけなら猪と同じだ。結果論かもしれないが、蕃山の意見を採り、急ぎ結論を出さず保留とした光政は、まさに名君である。

承応三年の大洪水から二〇余年の歳月が流れた。その間、光政は「洪水対策と新田開発の両立は、できないものか・・・・・・」と思い続けていた。

ついに、その思いが天に通じる時がきた。「蕃山先生の案を踏襲しただけですが・・・・・・」

家臣津田永忠が先輩の蕃山に花を持たせつつ光政に提言した。蕃山は、十数年前に辞職し岡山を去っている。

「洪水対策は百間(約一八一m)の越流堤と放水路。新田の水は旭川ではなく東の吉井川から取水。そのため百八十町(約二〇キロ)ほどの倉安川には水量調整のため八つの水門を設置。倉安川によって吉井川と旭川が連結し高瀬舟の運行が可能。古池の利用、とよ(呼樋)を縦横に引き排水を迅速にする。水害には保証を・・・・・・」

保留が生み出した二十年間の歳月、そのことが津田を土建専門技術者に成長させ、徹底的に総合的な治水・新田開発プランを提出させたのである。

かくして旭川に越流堤が築造され、そして倉安川と倉田新田(約五千石)が完成した。倉安川を運行する高瀬舟の上で、名君もお殿さまだから、やっぱり「余は満足じゃ」と扇子をパタパタさせたのかな・・・・・・。